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スラングとして使われている"Японский городовой"「日本の巡査」
スラングの意味
Японский городовой は文字通りの意味だと「日本の巡査」という感じですが、この ”городовой”は現在は使われていない単語です。
この"Японский городовой"「日本の巡査」は何か上手くいかなかった時、「チェッ」「クソッ」という意味で使われています。
「блин!」ブリン!のような感じですね。
なんで、「日本の巡査」が「チェッ!」という意味になったのか・・・??
しかし、このスラングのお陰(?)で日本とロシアの間に起こった過去の事件は若い世代のロシア人にも忘れ去られず伝わっているそうです。
この言葉やその事件について見ていきましょう!
городовойとは
городвойは1862年~1917年、帝政時代にかけて使われていた単語です。町の警察の巡査に該当します。
画像引用:http://lhistory.ru/statyi/gospodin-gorodovoj
日本の巡査って若い警察官のイメージがあるのですが、こちらの巡査は威厳たっぷり。
というのも、この時代の巡査は「威厳」が必要だったのです。
革命運動が盛んな時代で農民によるストライキや事件などが深刻化していく中で、秩序を保つために「巡査」たちは活動していました。
「日本の巡査」って誰?津田三蔵が起こした「大津事件」
大津事件とは
画像引用:https://aminoapps.com/c/amino_japan/
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。
来日中のロシア帝国の皇太子が日本の若者、しかも警備する立場であった巡査によって切りつけられるという大事件でした。
画像引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/大津事件
事件前の写真。長崎にて。
事件当日
5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。
画像引用:https://ru.wikipedia.org/wiki/Инцидент_в_Оцу
ロシア帝国皇太子が訪日ということで、歓迎ムードが高まっていた日本。
画像引用:https://blog.goo.ne.jp/1971913/e/17ee2906774100c9c93af5bd3c490b6b
そんな中、突然切りつけられるという事件が起こってしまいました。
皇太子ニコライを切りつけた津田は、なおも切りつけかかろうとするのを人力車の2人によって取り押さえられました。
なぜロシア帝国皇太子ニコライは訪日していたのか?
画像引用:https://ru.wikipedia.org/wiki/Инцидент_в_Оцу
パーミャチ・アゾーヴァ。これに乗って皇太子ニコライは旅をしていたらしい。
1891年(明治24年)、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは御召艦「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。
日本のウィキには「ついでに」日本を訪問した感じで記載されていますが、ロシア版では目的はあったようです。
22歳の皇太子ニコライは知識を深め、異国の政治を視察する為に9カ月間旅をしていた。最後に訪れたのが日本だった。
画像引用:https://ru.wikipedia.org/wiki/Георг,_граф_Корфский
一緒に旅をしていた中の一人、ニコライ皇太子の従兄であるギリシャ王国の王族、ゲオルギオス。
彼も負傷したニコライを救助したと言われています。
どのくらいの傷を負ったのか?
日本版ウィキでは以下のように書かれていました。
ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。
ですが、実際はもっと多くの傷を負っていました。
画像引用:http://www.searchfoundationinc.org/romanov-readings/
画像引用:http://www.searchfoundationinc.org/romanov-readings/
これは・・・痛すぎます。
ニコライ二世の骨を見ると相当な傷を負っていたことが分かります。
よくぞご無事だったな、、と。。トラウマにもなりますって。。
治療中に骨の2.5㎝の骨の断片が出てきていたとか。
もしこの傷でロシア帝国皇太子が亡くなっていたなら、当時弱小だった日本はどうなっていたのでしょうか。。
事件の犯人、津田三蔵
画像引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/津田三蔵
明治24年(1891年)、来日中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀を経由するため、守山警察署より応援に派遣される巡査の一人に抜擢される。5月11日、皇太子の通る沿道警備の現場において、皇太子をサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/津田三蔵
なぜロシア帝国皇太子ニコライを切りつけたのか?
津田が斬り付けた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。
父親も三蔵が幼い頃に刃傷沙汰を起こしており、カッとなりやすい血筋なのでしょうか。
また過去に三蔵は暴力沙汰を起こしていたり、精神病歴があったとされているので、なにか思いこみが強い性格でもあったのかもしれません。
日本政府は青ざめ、天皇が直接謝罪
皇族が旅の接待役をしていた
ニコライ、ゲオルギオスと共に一行に居たのは有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)。
彼はイギリス留学の経験からニコライの接待役として抜擢されました。
画像引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/有栖川宮威仁親王
彼はニコライが切りつけられてすぐに明治天皇へ連絡。
明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避されました。
直後の関係悪化は免れたものの、実はこの事件がトラウマとなったニコライ二世は次第に日本への嫌悪感を強めることとなってしまったようです。
この事件が後の日露戦争を引き起こした?!事件後のニコライ二世
明治天皇より直接謝罪されたニコライ二世はこう答えています。
「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」
天皇より直接謝罪されたことが高く評価され、直後は日露関係は悪化しませんでした。
しかしながら、ニコライ二世はこの事件がトラウマとなったようで日本人に対して嫌悪感を抱くようになってしまったようです。
日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争を招いたと分析している。
確かに、直後は対応に満足していてもこれだけの傷を負ったのですから、後々古傷が痛むたびに思い出されると思います。
悪夢にも出てきそうなこの出来事は、日本人が思っていた以上に尾を引いていたのかもしれません。
"Японский городовой"「日本の巡査」の言葉が行きついた先
事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まったが、天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷き、報道を止めさせたという。
当時はロシアの各地でこの反日感情を抱いてしまうような報道がされていたことにより、Японский городовой=ネガティブなイメージがついてしまいました。
この強烈なニュースはロシアの人々に強く印象付け、そして現在のようなスラング的な使われ方をするようになったのだろうと思われます。